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アン・ワイザー・コーネル来日ワークショップ福岡2011年2-(4)



2日目 『内なる葛藤の中に生き生きとしたエネルギーを見出す』  #2 アクションブロック 

B村氏にリスナーになってもらい、フォーカシングを始めた。
テーマは、“人に対して、熟慮なくぱっと何かしてしまう。やめようと思うが、やめられない”だ。
教示の文言をB村氏に適宜換えてもらいながら、進めていく。

<ゆっくりと時間をとって、それをやりたいと感じている部分が、からだでどのように感じられるか、注意を向けてみましょう。>

自分の背中が少し丸まってきて、伺うような視線になってくる。
強くて持て余すのではと思っていたが、実際には、 小心に、
そっと、繊細に、周囲の気配をはかっている。

例えば今も、私は、 ちょうどそのようなやり方で、参加者の皆さんのことを気にしている。
どうだろうか、困っているところはないだろうか、
それぞれの方にとって幸せな時間になっているだろうか。

<それがあなたからどんな関わりを求めているのか、感じてみましょう。>
その部分がいつも外の世界に向けてしている眼差しを、 私が真似して、内側に向けて、静かに送る。
「ちょっとでもできることがあったら、するから。」 その部分が、喜んでいる。

<少し時間をとって、それがどんな気持ちでいるのか感じてみましょう。>
もし、私の中のその部分が本当に求めているようなことが、起こるとしたら―。

草木が勢い良く伸び、緑輝き、
季節に応じて咲いていく。
人の願いも生まれては育ち、
喜びを放射しながら
美しく、ほころんで、咲き交わす。

滞りなく流れれば、こんなにも―。

なんて瑞瑞しい世界。
これが、私が心底望んでいるもの。

<もしかしたら、それが、何かからあなたを守ろうとしているのかも知れません。>
それは確かに私を守ってくれている。
人から多少変人だと思われても、
間違って「しまった」と思うことがあっても構わない、
あの恐ろしいStoppageに比べれば―。
一旦澱んで沈んでしまうと、自力で動くことがどんなに難しいか、私は知っている。

もちろん深刻な滞りの中ででも、 身体は、“次に必要な何か”を知ってはいるけれど、
その切望は際立ちすぎて、
掴めるのは麦の穂だけ、
食べられるのはざくろの実だけ、
別の何かを差し伸べてくれている善意の手があったとしても
払いのけ、
“それ”が来るのを待つしかなくなってしまう。
そうこうしているうちに、 何なら受け付けられるのか、
皆目分からなくなってしまうこともある。
(例えば空のダンボール一つ動かせない気分になってるなんて、 他人からみたらおかしいだろうが、
「Stoppage 停止したプロセス」とはそんなものだ。)

だから私は不器用でもやってみる。
人に対して、 スイカを出したり、猪を見せたり、
的はずれなこともやるかもしれないけれど、
少なくとも、 「それではなかった」ということが分かるだろう。

「私をStoppageから守ってくれてありがとう」
私は、その部分に感謝し、目を開けた。

これからも、私が始終、何かを「えいやっ」とやってしまうということ自体は
変わらないかもしれないが、
そのときに、 自分の中の
あの繊細な目と猫背、 そして理想の草原を思い出せば、
いい具合に少し柔らか目になれそうな、そんな気がした。

参加者の方の感想。
「最後の段階になって意外とディフェンダーがいいやつだった。
嫌われてでも大事なことを教えてくれようとする、意外といいやつだなということが得られました」

アンさんはおっしゃった。
<フォーカシングを長年やってきていますけど、どんな自分の中の部分であっても例外なしにそれはあなたを何らかのかたちで、生きるのを助けようとしている。
その部分の行動だけみるとあなたを傷つけているかもしれませんが、意図自体は悪いものではない。 古い情報に基づいてやっているし、部分なので全体を見ることができないんですね。
そういう意味ではすべての部分はいいやつだと思いますし、
それを感じることができたということで私も嬉しく思っています。>

このあと、コントローラーについてのフォーカシングへと進んでいった。



アン・ワイザー・コーネル来日ワークショップ福岡2011年 2−(5)
に続く