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特集 アート脳の達人たち2022

  • アートは、もうジャンルではない
  • 人形師になるしか選択肢はなかった

     小さい頃から風呂場でも父から「人形師になるんだ」と言われながら育ちました。周囲からも、ずっと「4代目」と呼ばれてきましたし。保育園の卒業文集では人形師になりたいと書いていたくらいです。一度だけ「バキュームカーの運転手になりたい!」と言ったことはあるらしいのですが(笑)。  東京藝術大学へ進学したのも、とくに芸術を目指すという意志もなく、単純にデッサン力をつけるために受験して、人形師への通過点としか思っていませんでした。入学当初は知識も、どの画家が印象派なのか?さえ怪しいくらいで(笑)。  中村家のできごと、そこで作られているものが僕の中のアートのすべてだったので、大学に入ってから「こんなに、いろんなアートがあるんだ!」と驚きました。大学では備前焼の後継者とか名古屋の硯屋の六代目とか、僕みたいな伝統工芸の後継者たちもいましたし、サラリーマン家庭から突然変異的に藝大へ入ってきて、めちゃくちゃ面白い作品を作る人もいました。遊んでばかりで、ろくでもない仲間たちでしたが(笑)作るものはスゴくて刺激になりました。
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  • 伝統は、時代に合った選択をして壊し続けるもの

     大学へ行かなかったら、今の僕はないと思います。ただ、「卒業したらニューヨークへ行って現代アーティストになろう!」なんて思わなかったですね。大学院を出るまで人形師になるという気持ちは変わらなかったし、大学へ行ったことで人形師になるという気持ちは、より一層強まったんです。このままじゃ伝統工芸はダメになってしまう。アートの世界に響くような作品を伝統工芸で作って文化を遺す。伝統工芸のためにアートを利用するんだという考えが生まれました。  「伝統」っていうと固いイメージがあるかもしれませんが、固定しているようで固定していないものが伝統なんです。「伝承」は一言一句変えちゃいけない。でも伝統は、伝承を解釈した上でその時代にあった選択をして壊し続けていくもの。その行為が伝統という感覚です。  外から見るとカチッと固まっているように見えるんですけど中にいる人にとってはものすごく流動的なんです。ガラスって固体だけど、顕微鏡で見ると中の粒子は動いている不思議な存在らしいんですが、そんなイメージだと思います。
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  • 江戸時代の人形師が現代にタイムスリップしてきたら?

     卒業後は、父から技術を叩き込まれながら、柿右衛門窯さんで草むしりを半年やったり、太宰府天満宮では梅の木の剪定とか雑務をお手伝いしたり丁稚奉公にも励んでいました。「技術は内で、心は外で磨く」というのが中村家の教えなんです。  5年前くらいから「江戸時代の人形師が現代にタイムスリップしたら、どんな人形をつくるのか?」というコンセプトを思いつき、アスリートをモチーフにした作品などを作っています。コンセプトは変わらなくても少しずつ変化している部分もあります。タイムスリップしてきた人形師も、さすがに5年も現代にいればパソコンを使い始めるだろうとか、宇宙の本や量子力学の本を読んだらどうなるんだろうとか、古典と現代との掛け合わせが進み、江戸時代の人形師が現代アーティストになっていく過程だと思います。
  • アートじゃないものがなくなるまで、アートは広がっていく

     僕が今感じているのは、アートって言葉がジャンルではなくなったということです。すべてのものがアートと言い換えられるようになってきたと思います。アートとアートではないものの境界線をパタンパタンとひっくり返していく。それを、みんなが驚いたり楽しんだりしてきましたよね。コミュニケーションもアート。街を掃除したってアートかもしれない。「これはアートだね」「アートじゃないね」みたいな議論は、もう不毛ですよね。アートは、アートじゃないものがなくなってしまうまで広がり続けると思います。福岡だと、僕は飲食店がぜんぶアートに見えるんです。高級でもない食材が美味しかったとき「えー!」ってなるじゃないですか。カニクリームコロッケってここまで研ぎ済まされますか?とか。料理人ってアートだなと思うし、どんなジャンルの人でも、みんなアーティストに早くなればいいと思います。
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  • 総合大学に芸術学部があるってうらやましい

     今は、でっかい会社に就職しても潰れるかもしれない時代じゃないですか。絶対的な安定なんてない。そんな中でアートってサバイバル術のひとつだと思うんです。ソロバンだけじゃ食べていけないけど、アートもわかる人は成功する時代。これからアートを学ぼうとする人には、先見の明があると思います。  ただ、アートだけを学ぶだけでは難しい。九州産業大学のように、総合大学に芸術学部があるって限られてますよね。それって、とてもうらやましい環境なんです。僕が行った大学は芸術だけだったけど、東京大学とか慶應義塾大学とか合体してた方がよかっ
人物
〈展覧会〉
2014 「スサノオ~神々の肖像~」/ギャラリーマルヒ(東京)
2018 「Tiny spirits」/現代陶芸 釉里(福岡)
「MVP(Most Valuable Prayers)」/日本橋髙島屋美術画廊X(東京)
2019 「SUMMER SPIRITS」/POLA MUSEUM ANNEX(東京)
「Fine Pray!」/横浜髙島屋美術画廊(神奈川)
2020 「Prayer&prayer」/レクサスさいたま新都心(埼玉)
2021 「祈るための道具たち」/日本橋木屋本店(東京)
「中村人形と太宰府天満宮」/太宰府天満宮宝物殿(福岡)
「Green eyes」/京都髙島屋美術画廊(京都)、大阪髙島屋ギャラリーNEXT(大阪)
「Great Mission」/福岡三越美術画廊(福岡)
〈受賞〉
2006 第1回藝大アートプラザ大賞 大賞
2008 第3回藝大アートプラザ大賞 大賞
2009 日本芸術センター第1回彫刻コンクール 審査員賞・三菱地所賞
2013 第60回日本伝統工芸展 新人賞)
2014 「第49回西部伝統工芸展 日本工芸会賞)
2015 第50回西部伝統工芸展 福岡市長賞
2016 第3回金沢・世界工芸トリエンナーレコンペティション部門 優秀賞
2017 伝統工芸創作人形展 in 金沢 中村記念美術館賞
2019 「第54回西部伝統工芸展 日本工芸会賞
2020 九州芸文館トリエンナーレ 大賞
2021 第55回西部伝統工芸展 日本工芸会賞

MATERIAL MARKET

MATERIAL MARKET
マテリアルマーケット

久保哲也さん 睦さん

  • それぞれの想いを抱いて九芸へ

  • 人物
  • 哲也さん:物心ついた時から絵を描くことが好きでした。家業が大工でしたが、とりあえず進学した普通科の高校で「プロダクトデザイン」を知り、面白そうだなと思って九芸デザイン学科のプロダクトデザインコースへ行くことにしました。


    睦さん:父が家具のデザイン事務所をやってたんですけど、私は絵画の方が好きだったんです。でも、無口な父が遠回しに「プロダクトデザインってどう?」と勧めてきたんです(笑)。それで、九芸のプロダクトデザインに。

    哲也さん:生活家電のデザインをしたかったのですが、就職したのは、建築金物とか家具とか店舗用の商品をつくる東京のメーカーでした。


    睦さん:私は、3年生の後半からJR九州との産学連携プロジェクトに参加して駅のユニバーサルデザインの研究を始め、引き続き大学院で2年間研究を続けました。卒業後は北九州の浄水器メーカーへ就職し、プロモーション担当として東京で勤務しました。

  • それぞれの想いを抱いて九芸へ

  • 哲也さん:妻とは東京で結婚したんですが、ほとんど北京や上海へ出向して働いていました。その会社でやれることはすべてやったという節目を迎えて、二人とも九州出身のなので、福岡で独立することに。そのとき新しい事業をつくる目的で始まった「イノベーションスタジオ福岡」という市民参加型のプロジェクトがあり、どんな道を進むべきか探ろうと参加することにしました。


    睦さん:そこで同年代の仲間と出会うのですが、九芸出身の北嵜さんや福田さんもいたんです。みんなデザインやモノづくりに携わっていて、近い問題意識を持っていて、いっしょにいろんなリサーチを行ったりしました。


    哲也さん:前職の時に、自分がデザインしたものが2、3年後には廃棄される姿を見て、「何をつくってるんだろう?」と感じることがありました。できるだけ廃棄物を減らしたいとディスカッションしてたどりついたのが、端材や廃材を再利用する「マテリアルマーケット」なんです。


    睦さん:廃材って飛び込みでいっても簡単に売ってくれるものじゃないんです。でも現場に近い仲間がいてくれたおかげで、少しずつ廃材を集められるようになりました。

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  • 廃材がなくなる明日を目指して

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  • 哲也さん:僕が廃材に興味をもったいちばんの理由は、端材や廃材の形や素材がおもしろいと思ったからです。普通にモノづくりを考えるのではなく、そこにあるものから考える。ある種制限を設けた上で何かをつくるって楽しいですよ。普通の人たちもモノを見る目が変わってくると思うんです。使い終わったら「なんか使い道ないかな?」って。


    睦さん:今は、廃材を仕入れて販売している企業から「廃材を使って商品をつくりたいけど?」と相談も受けるようになりました。廃材って出るタイミングがあるんですよね。廃材が出る企業と廃材を必要とする企業をマッチングするコーディネーター的な役割も果たせるようになりました。


    哲也さん:モノがつくられる前に「こんな廃材が出る」と相談を受け、つくるまえに端材を商品にする流れをつくれれば、廃材自体がなくなるんですよね。

  • 大学を自分のために使い倒してほしい

  • 哲也さん:九産大って、自分が動いたぶん成果が見える大学だと思います。逆に動かないと何も生まれないかも?せっかく大学へ入るんだったら環境や設備は揃っているので大学を使い倒して、自分がやりたいことにチャレンジすればいいと思います。


    睦さん:そして、今まで考えていたことがアートという切り口に触れることで変わっていくと思います。高校のときはふわっとしていて良いです。大学でいろんな人に出会って「この道に行こう」というのが明確になるものだと思います。

MATERIAL MARKET

マテリアルマーケット 久保哲也さん 睦さん


お二人とも九芸デザイン学科プロダクトデザインコース卒業。哲也さんが家具のデザインやプロダクトデザイン、睦さんがグラフィック、WEBデザインを担当する「KUBO DESIGN STUDIO」として活動しながら、福岡在住の建築家、プロダクトデザイナー、グラフィックデザイナー、家具職人…ものづくりを生業とするメンバーが集まり、工場や工房から出る端材や廃材の有効的な使い道を探るプロジェクト「マテリアルマーケット」を立ち上げる。


マテリアルマーケットの詳細については
https://www.material-market.com

特集 JR九州インタビュー 陶芸

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  • 鉄道会社でありながら海外に目を向け1991年、博多港と韓国釜山港を結ぶ「高速船ビートル」の開発と運行を開始したJR九州(九州旅客鉄道株式会社)。
    "グッドデザイン イズ グッドビジネス"という考えの元、デザイナー水戸岡鋭治氏とコンビを組み開発したスタイリッシュな「九州新幹線800系」「SL人吉」「海幸山幸」「或る列車」など斬新なデザインの列車が九州各地を颯爽と走っています。
    九州の魅力を世界に発信するという発想で2013年に誕生させたクルーズトレイン「ななつ星in九州」は全国のJR各社に豪華列車開発ブームを巻き起こしました。
    故・十四代酒井田柿右衛門(人間国宝)作による手水鉢、家具の町で知られる大川の家具職人手作りの組子装飾など「ななつ星」には外観だけでなくインテリアにも九州ならではのデザインの力が活かされています。
    鉄道事業、駅ビル、ホテル事業、レストラン経営など、JR九州の幅広い事業展開の根底には常にデザインの発想があるようです。
    九州産業大学の学部編成によって誕生した芸術学部ソーシャルデザイン学科、生活環境デザイン学科は"アトリエの中だけで生まれる芸術"を超えた新しい何かを時代が求めている声に応えたものです。
    時代の先端を走る企業の発想とこれから、そして九州という地の可能性についてJR九州広報部長・畑井慎司さんに聞いてみました。
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-JR九州に入社しようと思ったきっかけは?
「いろいろ挑戦できそう」と、思ったのがきっかけでした。もともと福岡で育ちましたが、関西の大学へ進学。そのまま、関西もしくは足を伸ばして東京で働くという手もありました。しかし、私が就職活動をしている当時は、国鉄からJRへと民営化が行われた後の変革の時代。「大きく変わるために若い人に頑張ってもらいたい」という担当者の言葉に、「自分にも何かできるのでは?」と思ったのがきっかけで九州に戻る決意をしました。
-実際入社されてからは、どのような経験を積まれましたか?
入社して、大分駅の駅員や北九州の門司で車掌など、我が社の基幹である鉄道の現場を経験させてもらいました。その後、本社で鉄道商品の企画や採用業務を担当しました。続いて、会社の海外留学制度を活用して、アメリカに2年留学してMBAを修得。帰国後は、財務部や経営企画部に所属。国土交通省への2年間の人事交流も経験しています。
その後も、JR九州が手がける飲食事業の海外展開のために上海へ赴任するなど、入社前に思っていた以上に、いろんな経験をさせていただいています。
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-さまざまな事業を展開されているJR九州ですが、その基本に「グッドデザイン イズ グッドビジネス」という考えを取り入れているとお聞きしました。どのような経緯でそのような考えを取り入れられたのでしょうか?

グッドデザイン イズ グッドビジネスの切り口は、JR九州初代の社長である石井幸孝氏の思いが基本にあります。
国鉄時代の九州の鉄道には、「古い、汚い、遅い」そんなイメージがありました。なぜなら、九州の車両は主に首都圏で使い古されたものが再利用されていました。駅舎が古くなっても、まずは首都圏での改修が先になって、なかなか九州まで手がまわらない状況だったようです。
そんな中で、JR九州が誕生。当時は九州内の高速道路の整備が進む中、高速バスやマイカーとの競争激化が想定されていました。鉄道再生を手がけるなかで、本数の増加やスピードアップ、ダイヤの改正などは当然取り組むことでしたが、値段や時間での勝負だけでは限界がある。差別化の大きな要因として社長が考えたのが、「デザイン」だったのです。

-「グッドデザイン イズ グッドビジネス」を具体化するためには、どのような取り組みが行われたのでしょうか?
鉄道に乗って移動することが、楽しかとか快適さにつながるようにしたい。そんな思いで取り組んだのが、車両のデザインに力を入れることでした。そこで起用されたのが、社外のデザイナーである水戸岡鋭治氏でした。もともと、鉄道を専門とするデザイナーではなかった水戸岡氏の起用は、逆に従来の発想にない車両デザインを生みました。博多・西鹿児島(現・鹿児島中央)間を走っていた787系のデザインでは、座席数を減らして車内にゆとりの空間を取り入れたり、ビュッフェ車両を設けたりしました。それと同時に、女性乗務員の制服に車両と統一感を持たせるとともにサービスのレベルを上げるなど、ソフト面でのデザインにも取り組みました。これまでにないハード、ソフトの衝撃的なデザインは、内外から高い評価を得ました。
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-クルーズトレイン「ななつ星」の発想も、そうした流れから誕生したものなのですか?

テーマパークのように乗ることが楽しくなるD&S(デザイン&ストーリー)列車の集大成でもある「ななつ星」は、現在の会長 唐池恒二の思いが成就した列車でもあります。もともと「ゆふいんの森号」の立ち上げに関わっていた唐池は、その頃から九州のいろんな素材や魅力を感じていたそうで、それらを網羅する九州一周列車のようなものをつくりたい、と考えていました。
社長に就任後、改めて"九州の魅力を知ってもらいたい。それも、日本だけでなく、アジアそして世界の人に"。という思いのもと、「ななつ星」の検討チームをつくり、本格的な取り組みが始まりました。今ではななつ星を利用してくださる海外のお客様も多く、お陰様でD&S列車とともに九州のインバウンドにも一役買っている状況です。

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-ななつ星は、九産大キャンパス内に常設窯のある柿右衛門窯が関わっていたり、卒業生の青木耕生さん作のガラスの器が使われていたり、芸術学部とも深い関係がありますね。

そうですね。ななつ星の狙いは、九州の魅力を世界に発信すること。柿右衛門窯しかり、大川の組子しかり、「伝統かつ本物を取り入れたい」というのは、デザイナーである水戸岡氏の大きなこだわりです。青木氏のガラスの器は、九州の食材を使った食を味わっていただく際に、その美味しさを引き立てる器として活用させていただいています。

-基幹となる鉄道事業だけでなく、生活を切り口とした事業のなかでは、どのようなデザイン発想を取り入れていらっしゃいますか?

生活関連事業の一つとして駅ビルがあげられます。一番新しいのは、大分県のJRおおいたシティという駅ビルです。大分らしく温泉を併設させました。もともと、線路が大分市の北と南を分断していましたが、線路の高架化事業と連携し、まちのにぎわいづくりに努めました。現在進行中の熊本駅ビル開発では、水と森の都をイメージして駅ビル内に立体庭園をつくる予定です。
駅を少し離れた福岡市六本松地区の九州大学跡地の開発では、商業施設だけでなく、分譲マンションや介護サービス付きのシニアマンションなど、ひとつの街を、統一感をもってデザインしています。
住むや買う、食べる、それに働くといったことを機能的かつ快適にデザインしていくことは、今後も目指していく道だと思っています。

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-今後、どんな人材が求められるのでしょうか?若い人たちへのメッセージを。
私が若い頃のグローバル化というのは、どちらかというと、日本だけに閉じこもっていては駄目、海外に出てチャレンジしようという印象でした。一方で今日は、外に出ることも大切ですが、同時に国内でのグローバル化も進んでいます。ひとつはインバウンドであり、あとは働き手という面でもです。そういう意味では、日本にいても格段に海外の人、文化・考え方の違う人と接するチャンスは増えるはずなので、どんどん積極的に交流を深めてほしいですね。
もうひとつは、インターネット・スマホ・SNSの普及で、情報を得ることが非常に容易になっています。簡単だしすばやく検索出来る一方で、情報自体は玉石混交です。だからこそ、ネットの情報でわかったと思うのではなく、やっぱり本物を見る・触れる、実際に現地に行ってみるという経験をしてもらいたいですね。それはきっと、本当の理解を深めて、人間としての幅を広げることに繋がると思います。
人物 人物
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東京の著名な広告企画制作プロダクションライトパブリシティ(サントリーなど数々の名作)にてカメラマンとして活躍。後にフリーとしても活躍。1990年に小学館から発行した写真集「月光浴」が大きな話題に。月光によって浮かび上がる幻想的な風景作品を世界各地を訪ねて撮影発表している。2016年に故郷である福岡にあらためて魅せられ活動拠点を福岡に移し、現在は糸島半島にアトリエを構えている。

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人物 人物
  • 東京に進学して写真を学んでいた頃は、報道写真に興味を持っていました。実際は、一枚のポスターとの出会いがきっかけで商業カメラマンの道に進むことに。1964年の東京オリンピック100m走の写真が主役のポスターです。スタートの瞬間を切り取ったストップモーション写真の力強さに、かなり衝撃を受けました。今見ても色褪せていない写真ですよね。縁あってその撮影を手掛けたライトパブリシティに入社。篠山紀信さんや坂田栄一郎さんなど、日本を代表する名だたるカメラマンを輩出した広告プロダクションです。そこで、多種多様なクライアントの仕事を担当させていただき、技術を徹底的に仕込まれました。
  • その後、31歳の時に独立。とある仕事で、ハワイを巡る撮影へ出かけた時のことでした。満月の夜、海岸を散歩して浜辺に座り、月光に照らされた風景を眺めていると、突然、鳥が目の前を海面すれすれに横切ったんです。羽先までハッキリ見える様子に、インスピレーションが湧いてきた。もしかしたら、写真に映るんじゃないか!これが、月光写真のはじまりです。もちろん、当時、月光での写真は映らないというのが常識でした。でも、会社員時代に培われた技術に対する挑戦の気持ちをもって、試行錯誤を重ねました。誰も撮ったことのない「月光浴」シリーズは、世界とつながる機会を与えてくれました。
  • それから、私の写真のテーマは「地上の宇宙実感」。そう考えると私の写真は自然が溢れる場所ならどこでも撮影できると気づきました。街と自然が程よく溶け合っている故郷福岡に2016年に拠点を移したのもそんな理由です。福岡市内からも近い糸島半島に民家を借りて野菜を作りながら、草や木、そして昆虫や生き物を通した宇宙的な広がりを撮り続けています。自分の道を極めるのは決して容易ではありません。でも、技術を学ぶこと、そして五感に響く体験を積み重ねた先にきっと世界は広がると思っています。福岡の地から新たな作品作りを始めましたが、東京では気づかなかった何かが生まれることを期待しています。
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2019年秋 石川賢治写真展
『石川賢治月光写真展
宙(そら)の月光浴 space of spirit』
会 期 

2019年9月11日(水)~9月25日(水) 15日間

時 間 

10:00~20:00(最終日は19:00閉場)
※入場は閉場30分前まで

会 場

イムズホール(天神イムズ9階)
〒810-0001 福岡市中央区天神1-7-11
TEL 092-733-2002

入場料

一般800円(600円)、高・大生600円(500円)
中学生以下無料
※( )内は前売り・10名以上の団体割引料金

詳しくは石川賢治公式ホームページまで
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イラストを仕事にする父の背中を見て育ったので、物心ついたときには自分も絵を仕事にする思いはありました。でも、小学生の頃はゲーム会社で働きたかったし、高校時代は漫画家にも憧れた。漠然としたイメージでした。

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  • そんな時、父から「絵を描くゴールが決まっているなら、できるだけ遠回りしてたどり着くように」と言われアメリカの大学への進学を決めました。そこで、画力の基礎をしっかり学んだのは今の自分を支える自信に繋がっていると思います。また、海外での経験が、日本人であるアイデンティティーも気づかせてくれたし、物事を多角的に見る目も養ってくれました。
  • 帰国後のある日、落書き感覚でキャラクターを描いていた。それを偶然見ていた父が、突然「お前は、キャラクター一本で行け」と進言してくれたんです。自分の描く絵に、甘い評価をくれない父の言葉だったので、素直に受け止めました。とはいえ、いきなり仕事が来るわけもない。最初は、自らキャラクターグッズをつくったり、ポストカードをつくったりして、天神の路上で風呂敷を敷いて売るような経験もしていましたね。公募にもたくさん応募しましたが、なかなか選ばれませんでした。そのうち、どんなテイストが審査員に好まれる傾向にあるかもわかってきたんですが……、とはいえ自分のテイストは曲げたくはなかった。自分の色でやっと結果を出せたのが、2020年半世紀ぶりに東京で開催される世紀のスポーツ祭典のマスコットキャラクターだったのは有り難いですね。
  • もともと、仕事は東京の案件が多かったのですが、拠点はずっと福岡でした。それは、これからも変わりません。今は博多人形の技術なども習得中。むしろ、福岡だからできるキャラクターづくりに挑んでもいきたいですね。
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  • 谷口亮さんの父、谷口富さんもイラストレーター。鉛筆、パステル、水彩などで描く、国内外のスター似顔絵や、可愛い動物のイラストで知られています。
    自分の背中を見て育ち、絵の世界に進んだ息子の亮さん。日本中が注目したイラストのコンペで大きな評価を得ても「福岡を拠点とした活動を続ける」という亮さんの言葉が嬉しそうです。

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