APA体験記 (3)
7 印象に残った現象 −トランスパーソナルへの関心−

 全体の中で印象に残ったのは、「トランスパーソナル」の人気だ。普通のヒューマニスティック心理学の枠よりも、はるかに発表数が多い。前述のMariaさんも、ヒューマニスティックの中のトランスパーソナル心理学の立場の人だ。日本だとトランスパーソナル心理学は「きわもの」みたいに思われ、例えば日本心理学会でトラパが出るなんて考えられないが、アメリカではすごく自然なこととして学会の中に位置している。人気のある講師なら、Division32以外の人もたくさん聴きに来る。トランスパーソナル心理学の大学(大学院博士課程を含む)すら、カリフォルニアにあり、インターネットで授業を受けられるらしい。博士後期課程もある。つまりは博士号が出る。(調べる私も私だ。調べてどうするんだ)。
 アメリカと日本の浸透度の違い、それは一つには、「トランスパーソナルという言葉で指し示される領域」の違いに原因があると思われる。日本のトランスパーソナル、つまり「個を超える」心理療法といえば、前世の体験などを用いた特別な臨床を指すように思われている向きが強い。しかし諸富(2001)が指摘するように、トランスパーソナル心理療法とは本来、トランスパーソナル的な方法を駆使する心理療法のことではなく、セラピストがトランスパーソナルの視点を持っているかどうかによって定義されるもののようである。事実アメリカでは特殊なな方法論は一切語られていない。トランスパーソナル心理療法の目指すところ自体も、日本とはなんだか違っている感じだ。もともとトランスパーソナル心理療法とは、先に述べたスピリチュアリティーを含む全人的な成長を意識するようなセラピーを指すから、スピリチュアリティーの定義が変化するとトランスパーソナル心理療法の定義も変化する。で、アメリカにおけるスピリチュアリティーの意味をもとにアメリカのトランスパーソナル心理療法を考えると、それは、「自分の体や魂といった自分の深い部分や、自分以外の何かに対して深い敬意やつながりを感じられるようになること、それを人間の成長だととらえて重視する心理療法」ぐらいの意味かもしれない。少なくとも発表を聴いていると、私にはそんなふうに思われた。トランスパーソナルの標題を掲げたある招待講演に行ってみると、講師(残念ながら名前を忘れてしまった)の女性は、尊敬され人気があるらしく、会場がいっぱいだった。司会者が「もう、(有名なので)ご紹介する必要もないと思いますが」と言うと、フロアの人たちが上気した顔で微笑む。やがて話し始めたその人は、親しい人を亡くした人のためのセラピー、つまりグリーフワークをたくさんやる人のようだったが、彼女がいろんな事例を挙げながら話したことといえば、「誰かを亡くした人が、当初は苦しくて仕方がなくて日常生活も送れないぐらいなのが、セラピーを行ううちに、クライエントは『誰々はもう死んだのだけど、でも私の胸の中にいる。』とか、『わたしのそばにずっと居て、私を見守ってくれている』と感じるようになるんです。生きているときよりも深く、常に、その人とつながっている、そんなふうに感じることができて楽になるんです。それは、成長なんです!!」という話だった。
‥しごく、当たり前の話ではないか。日本じゃ、心理士じゃなくても、ごく普通の生活している人も、「それがどうしたの」って言うだろう。大事なのはそうなるまでの過程をどう援助できるかということ、つまり途中、どうやって寄り添ったらそういうところに行けるのか、ってところじゃないか。しかしアメリカ人の事例は、「こんなに重かった人がこう良くなりました」と、治療前と結果の描写がしっかりしてればそれでいいみたいで、途中どういうかかわりをしたかがあまり語られないのだ。しかしフロアはそれらの事例の結果話で満足そうにしており、語られるたびに、「ホー」と声が聞こえる。どこがどう「ホー」なのか。わけが分からない。
 まあでも、講師の先生の発音がとても聴き易くて、ゆっくりとした親切な英語で、雰囲気がクワイエットで優しくて声の底の方が強くて素敵な人だったから、私も拍手した。こんなわけで、普通のことでもアメリカではトランスパーソナルらしい。
 トランスパーソナルの発表枠では、こういうこともあった。「Creativity and Sprituality」というシンポジウムに行ってみると、人がいっぱいですぐに立ち見となり、発表が始まってもどんどん人が入ってきて落ち着かず、ただでさえ聴けない英語が聴き取りにくい。演者の話の内容も、芸術作品のスライドを見せながら、「この作品にもスピリチュアリティーがある、この芸術家にもスピリチュアリティーがある」と話しているだけのように思われた(もっと英語が聴けたら違っただろうが)ので、私はあきらめて別の発表会場へ行った。そこへ私と入れ替わりで院生が入っていて、あとで彼女が言うには、東洋物に対するアメリカ人の反応に驚かされたという。「だって、東洋の絵みたいなのとか、経絡のスライドとかが出るたびに、会場のあちこちから『オウ!!グレイト!!!』とかいう声が聴こえるんですよ」。同行の平井氏や山下氏(ミネソタ大学卒)によると、アメリカでは禅がものすごく流行っていて、禅療法とかいうものもあるし、日本のもので言えば他にも、森田セラピー(森田療法)も知っている人が多いという。
 自国の文化や自分にない雰囲気ものを補おうとするのは、人間の習性だろうか。「個」の確立を目指し、「個」の確立にかけてはもう、やらなくていいぐらいにやってきたアメリカが、今度は、個を超える、自分以外の何かとつながるセラピーを求めている。





7 印象に残った発表(1) ヒューマニスティック心理学の動向

 「Challenges and Opportunities−The Future of Humanistic Psychology」というシンポジウムに出た。
 ヒューマニスティック心理学の中核人物と思われる演者が3人(Fischer氏、Leitner氏、Cain氏)。語っていたのは、「ヒューマニスティック心理学がどうすれば、今後生き延びて、発展することができるか」という内容だった。演者たちは率直に、「会員数が以前の三分の二に減っている」と明かす。「ロジャースが従来の心理療法のアンチテーゼとして出てきたとき、革命的な印象や、あやしい印象、あれは哲学だという印象を持たれた。その印象のままになっている。われわれは、治療的に役に立つのだということを、データを元に示していかねばならない。」というような話から、「行動療法のホームページを見習って、うちもホームページを充実させねばならない」といったことまで語られていた。人がちらほらと散らばっているフロアからは、「日本ではあれほど流行っているというではないか。どうしてもっとこういう場でも、諸外国の話を聞くなど、建設的な議論を行わないのか」といった意見が出されていた(と、平井氏が聴きとってくれた)。確かに、Divisionの将来を語る大事な枠に30名ほどの人数しか集まらず、うち10人以上はわれわれ日本人というのは寂しい。
 終わって、皆で会場を出て話した。「演者の元気がなかった。日本人があの人たちを元気付けることができないだろうか。みんなで学会発表しよう。」と平井氏は言う。私自身は英語が聞き取れないせいもあって、その盛り下がりぶりがピンと来ず、むしろ、演者たちから、「周囲の情勢はどうであれ、自分はヒューマニスティックを貫く。つまり効率主義や病理モデルではない、成長の観点からやっていこう」という、生きる姿勢・哲学を感じることができ、個人的に満足していた。演者の一人は、「(ヒューマニスティック心理学は病理診断をよしとしないが、)それならばDSMに変わるヒューマニスティック心理学なりの見立て方を呈示していかなければならない」と語っていた。自分は、そのような大きな視点を、考えたことも無かった。

注:アメリカにおけるヒューマニスティック心理学の盛り下がり
 平井氏によると、アメリカでは医療保険制度の影響が大きく、それが、ヒューマニスティック心理学のカウンセリングが下火になっている主要な理由だとう。
 アメリカでは人が一年間に受けるカウンセリングの回数が一定回数以下(1年間で12回以内等)ならば医療保険の対象になる。しかしどの心理療法でもよいというわけではなく、
○ 診断をはっきり行う。
○ 診断名に適合する治療方法がはっきり示されている
○ その治療を行うことによる症状の改善が、従来のデータによって予測できる。
といった療法に、保険会社は保険の適用を許可する。
ヒューマニスティック心理学の立場に基づくカウンセリングは、元来治療ではなく成長促進を目指すものであり、
○ 病理診断をよしとしない。
○ 症状の改善そのものよりも、人として充実した生き方を探求しようとする。
○ 治療過程は画一的ではなく、クライエント独自の過程に寄り添う
といった特徴のため、いきおい、保険対象から除外されている。

 また、友人の福盛氏(九州大学)の留学経験によると、ロジャースの三条件などはアメリカの心理士に浸透しきっていて、「セラピストなら誰でも行っていること」で「自分も当然できていること」だと考えているので、(実際にはそう簡単にいかない奥の深い態度と思われるが)とりたててそれを深く磨いたり、中心的なオリエンテーションとせずに、他の技法を積み上げて折衷派を名乗る心理士が多い様子だとのこと。




8 印象に残った発表(2) ヒューマニスティック心理学の治療論

 そういう意味では、Terence J.G.Traceyさんという人(アリゾナ州立大学)の「Interpersonal Process of Therapy:A Stage Model of Successful Interaction」という発表が印象に残った。

○ 人間は、人に影響を与え、人からの影響をうけとりながら柔軟に変化している。そういう相互 のやりとりがあるのが、人間の自然な姿である。

○ 何らかの問題をかかえ、クライエントとしてカウンセリングの場を訪れる人は、人に影響を与えことができるが、人からの影響を受け取って変化することがあまりできない状態にある。

○ カウンセリングの過程には、以下のような関係性の推移があり、それがクライエントの日常生活での問題の改善をもたらす。
第一ステージ:ラポールの段階。クライエントはセラピストに理解されていると感じ、二人の波長がぴったり合っていると感じる。
第二ステージ:クライエントはセラピストとのずれや、伝わらなさ、両者の違いを体験し、セラピーの関係が緊迫したものとなる。
第三ステージ:相互性の段階。クライエントとセラピストは相互に影響を与えて響きあう関係となる。それと同時に、ライエントの周囲の人との関係もそのようなものになる。

 私の英語の聞き取りがつたないので、骨子だけ(しかも意訳)になってしまったが、だいたい上記のような要旨のことを、パワーポイントのシンプル図を使いながら説明していた。
 私にとってなぜこれが印象に残ったかといえば、.Traceyが病理モデルの難しい言葉や概念を使わずに、あらゆるクライエントに共通するであろう現象としての「治療前のクライエントの状態」を表現し、治療のプロセスで起こる関係性についても、きわめて自然な言葉で説明していた点であった。従来の病理モデルでクライエントを描写しないということは、ヒューマニスティックの大きな目標の一つであり、意義を感じる。

 Tracey氏の話は、精神分析的に言えば「錯覚と脱錯覚」に似ている。そういう意味では、聴いていて取り立てて新しいという感じはしなかった。Tracey氏は(発表枠が短いせいもあっただろうが)、「分析などの今までの研究ではこのように言われている」といった過去のことは一切言及せず、ただひたすら、自分がセラピーの中で感じる感覚を言葉にして発表していた。
 
 この発表に限らず、学会全体として感じたことであるが、アメリカでは調査研究はやはり大幅に進んでいる(日本では分け入って調査できない対象にも事細かに質問紙調査が行われている。犯罪心理学あたりは特に、進み具合に驚くことばかり)。反面、理論的な研究においては、そうまで目新しい感じ、目からうろこが落ちるような感じはしない。でも、理論の発表が少ないわけではない。今まで言われていることについて、「言われているからもう言わない」のではなく、自分の言葉で一生懸命言い直して自分の研究にしている。
 Hospitality Suiteで私が感心したMariaさんの話(上述)にしても同様だ。Mariaが言うようなことは、例えば日本の現場の教員が書いた本の中にも感じることができる。それらの本では、「日々、知的な授業を行うことが教師として一番子どもたちの力になれることだ。知的な授業が行われるクラスでは、いじめが起こらない」などと締めくくられていたりする。授業にわくわくするような学校生活が生徒を癒すんだという発想、及びその現象は、どこの国でも、すでに行われていることだろう。それをMariaさんは、Transpersonalの、それこそスピリチュアルな感じのする言葉でもって、改めて物語っていく。
 アメリカではこのように、すでに言われている言い回しを踏襲せずに、各人が自分のオリエンテーション、自分の言葉で、新たに語っていくことも新しい研究なのだ。実際、どっかで聴いたような話ではあっても、用いる言葉と人が違うと、そこになにがしか新しい視点、新しいニュアンスの風が入ってくる。
 同行の坂中氏(福岡教育大学。ヒューマニスティック心理学)に、「Traceyさんという人の発表聴いたら、分析で言っていたようなことを、分析の言葉を使わずに言ってたんよね」と話すと、坂中氏は、「そうですよ、行動療法だって、精神分析の用語をぜんぶ言い換えたんですよ。精神分析の「転移」は、行動主義の『般化』で説明できるるでしょ。そんなふうにヒューマニスティックももっと、何でもヒューマニスティックの言葉に言い換えていかないと」と言う。なるほど。
 
 あともう一つ思ったのは、演者の.Traceyさんの顔や雰囲気が、普通のアメリカ人ではなくて、産業医科大学の増井武士先生と、京都大学の藤原勝紀先生を足して二で割った匂いがあったことだ。アメリカにもそういう雰囲気の臨床家がいるのだなあと思った。トランスパーソナルの会場では東京フォーカシングの井上澄子先生みたいな雰囲気の人が居て、同じく東京フォーカシングの白岩紘子先生に顔がそっくりな人が司会をしていた。福岡教育大の喜多先生(社会学)も、「私は女性問題の枠に出ているんですけど、国も学問分野も違うのに、雰囲気がほとんど『あすばる』(福岡県女性総合センター)で。なんだかそれ面白くてですね。」とおっしゃっていた。どの分野にも、そういうことはあるのかもしれない。








↑土曜の昼は発表も少なかったので、観光へ。残りの院生たちは、この日、海のはしごをして泳いでいたらしい。恐るべし。









↑この木何の木♪ ハワイの木だとは知らなかった。




9 感想

 と、こんな具合の学会でした。アメリカにおいて何がどのくらい進んでいるのか、流行り具合はどんな絵地図なのか。それが分かっただけでも収穫でした。あと、トランスパーソナルやスピリチュアリティーということがどういうことか、複数の人が話すのを聴いてなんとなく分かったことが大きな体験でした。
 私は、早朝以外ほとんどすべての発表枠に、これでもかと言うぐらい、出まくりました。英語が分からないから、知識が入ってこなくて、日本の学会と違って一日中聞いても疲れないんですね〜これが(情けない)。一方、坂中氏ぐらいヒューマニスティックばりばりの人になってくると、ヒューマニスティックの発表枠が少なくて、出ようにも出れないって感じだったようです。アメリカ発のヒューマニスティック心理学が、どうしてアメリカでこうも下火になって、ヨーロッパや日本で流行っているのか。帰路、私たちは、二人で話しながら帰りました。

森「エンカウンターグループってアメリカではもう、下火みたいになってるけど、実際はアメリカ人は、グループ好きやね。学会でもやたら『心理の大学卒業した人の生き方』だとか、そういう発表枠に、似たようなフロアの人が行ってさ。ほとんど、自助グループで。そんなふうにテーマを限定したエンカウンターみたいなことは、しきりにやってるけど、エンカウンターって言わない。アメリカ人は、次々に言葉を変えて言い直していって古い言葉は使わないね。」

坂「でもヒューマニスティックの根幹の、自分がよりよく生きるとか、自己実現とか、アメリカ人は好きそうじゃないですか。その辺りにの原理にはもう少しこだわっても良さそうだけど。保険制度が大きいんだろうけど、保険制度がどんなであれ、お金払って、そういうセラピーに行きそうですけど、違うんですかねえ」

‥なんて、空港で話しながら出た仮説は、
○アメリカ人は、ロジャースが出てきた当初、きっと、それまでのヨーロッパ発の心理療法(精神分析等)ではない自国民の言葉で、自国民の感覚、スピリットにフィットする心理療法が出てきて、 とても、喜んだだろう。で、大波がうねるほどの隆盛を極めた。

○ でもそれは、アメリカ人にとって根本的に心の底にあった生き方の理想像をロジャースが指し示したのであって、アメリカ人にとって、ものすごく文化的に新しい考え方ものではなかったのではなかろうか。つまり、私たち日本人が、アメリカ人ほど禅について知っているかと言うと意外とそうでもないし、あらためて勉強しようという気もないように、である。

○ 日本やヨーロッパの国民性は、その文化の反動で、アメリカ人よりももっと、ヒューマニスティックの態度(自分を大事にする、自分の内側に問いかける)ということを必要としている。

そんなところです。よい経験でした。同行の皆さん、お世話になりました。








↑余談です。
帰りの韓国の空港にて。「イルクーツク行き」の便を発見。イルクーツクといえばロシアはバイカル湖のそば、最低気温が世界一低い街のはず。行けるってなら、行ってみたい。
でも、そんな街になぜわざわざ夜20:10発なんて遅い時間に便が設定されているのだろうか?着くのは深夜なんじゃなかろうか。どんな人が乗るのだろう?。観光だろうか、商用だろうか、それとも、私たちの想像のつかない業務だろうか??などと盛り上がった私たち。
しかも帰国して大韓航空をいくら調べてみても、イルクーツク行きの便はない。(日本の新潟発の便はあるらしいけれど。)
よけいそそられる。
幻のイルクーツク便。






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