森川研究室ホームページ
気まぐれ日記


2005年2月10日

東亜大学へ行き、公聴会に臨んだ。
修士論文、課程博士論文と、スーツに身をつつんだ若い人たちの発表が続き、私には15:00ごろ順番が回ってきた。
名前を呼ばれて前へ行くと、黒板の横に、1メートル以上あろうかという長い指示棒があったので、これ幸いと、使わせていただくことにした。
パワーポイントのスクリーンを、指示棒で指しながら発表した。
はじまって3分ごろ、ちょっとウケた。
気をよくしてしゃべっていると、ふと、自分の手が後ろに行っていた。
その長〜〜い指示棒でもって、首のうしろをトントンと叩いていたのだった。
中学校あたりの数学の先生が、だらしなく立って、定規で肩を叩く、あの動きだ。
気がついたら足を開き体も斜めを向いている。
いかん。
論文公聴会としてはまず考えられない不遜な態度。
自分の中で「−30」という点数が点灯する。
でもくよくよしてはいられない。性格が露呈したといえばそれまでだ。早口でも持ち時間を3分オーバーする分量、飛ばすしかない。すると、こんどは手がすべり、指示棒が、「グァラグァラグァシャーン」と、すごい金属音を立てる。「−15」。すぐに拾う。止まるわけにはいかない。そんなときこそまた、手がすべる。「グワシャシャシャーン」。大御所のおじいちゃん先生たちの心臓がびっくりするさまが想像できる。ごめんなさい。「−20」。止まるわけにはいかない。ひたすらしゃべる、しゃべる。
そして4分オーバーで発表を終えた。
2人の副査の先生方がコメントをおっしゃる、その紳士な物腰。
心理士とはいえ、あり得ない紳士ぶりだ。
先生方と自分を比べてみると、こしあんとつぶあんほど違う。
学者というものは、昔は、教養人を兼ねていたのだろう。なんとなくそう思った。
冷や汗の1時間が終わり、そそくさと壇から降りると、主査であり恩師であるM山先生が、「良かったよ、クッシシシ(笑)」と、屈託なく笑われた。
先生の、せんべいを2枚重ねて食べても大丈夫そうな歯を見て、私は少しほっとした。
M山先生は、私が指示棒で肩を叩いてたことにはお気づきではなかったのだろうと思われた。

それにしても、なぜ人は長い棒を持つと、肩も凝ってないのに、トントンと叩いてしまうのだろう。

この公聴会で自分が具体的にどんな評価をされたのかは分からないが、とりあえず先へは進むことができたようで、「要旨」を書いて提出するようにとのことだった。
それをこなすと、次の課題を教えてもらえるのだろう。それをこなすとまた次の課題が分かる。
博士論文はオリエンテーリングに似ていると思う。

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2005年2月8日
もう一匹の棟猫、くろちゃんが家に遊びにきた。

ご想像のとおり、黒猫だ。
前に書いたじろーちゃんよりも後に、マンションに住み着くようになった。

なでようとすると、最初はびくっとして避ける。少し撫でられていると、グルグルと言う。
一言も鳴かず、探索して周り、えさを食べ、寄ってきて少し撫でられ、私のコートの上で静かに過ごす。その繰り返し。
居ることを忘れるぐらい、静かな猫だった。

いろんな性格の猫がいる。

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2005年2月1日
そろそろ、きちんと数字にしないといけない頃だ。
博士論文公聴会まであと何日あるのか。
準備に取れる時間は、何時間あるのか。
はっきりさせるのがおそろしい。
このまま行くと、間に合わないかもしれない。
新たな相談を、「じゃあ明日」「じゃあ5日後に」とひき受ける。
ただでさえそういう、予定が立たない仕事で、まあそれが仕事だからそっちはそれでいいのだが、
会議や入試の試験監督が「今週の木曜日に」「金曜日に」などと、容赦なく急に入るのが困る。
こないだはセンター入試の監督だったのに‥。
一週間の予定が立てられない人間が、将来の計画を立てられるはずが無い。
だいたい私は何をしたいのだろう。
何をどうコントロールしたいのだろう。
将来なにをしたいのだろう。
ブルーな気持ちになっていると、夜の9時ごろ電話がかかってきた。
「□□です!」と名前だけ言う。空気が弾んでいる。
試しに「あ〜久しぶりね〜」と言ってみたら、彼は「先生は今何をしていますか」と言った。□□くんだ。自閉症児と一緒に遊ぶという私たちのボランティアサークルに、毎週遊びにきてくれていた彼は、当時小学生で半ズボンだった。10年以上ぶりだ。
「先生は30歳超えましたね。いつ結婚しましたか。なぜ結婚しましたか。お母さんになりましたか。お母さんになる予定はありますか。」と、彼は自分の聞きたいことを聞いた。私の答えに曖昧な部分があっても、それが今の私からの答えであれば、彼はとりあえずOKなようだった。彼自身のことを尋ねると、会社に行っていてスポーツもしている、と話した。そして「あ〜久しぶりで嬉しいです!」と感想を言った。私は、彼が感想を言うようになったことに彼の成長を感じた。
彼はさらに、「☆☆くんと○○くんがいましたね」と同窓生の男の子たちの名前を挙げ、「先生では▽▽さんと△△さんがいましたね」と、私の先輩の女性たちの名前を挙げた。
私が「あ〜いたね〜、今どうしているかねえ」と言うと、彼は即座に
「はい、40才過ぎてます」と答えた。
それはそうに違いない。
それ以上ない、明快な答えだ。
その一言で、しっかり者の女の先輩たちが、40才になっているところが想像できた。
彼女たちが今何をしているかは分からないが、中身はあまり変わらず、さらにしっかりしているのだろうということが想像できた。
彼と話していたらなんだか楽しい気分になってきた。
彼と言う鏡に私を照らしてみると、もし私が博士論文を今年落としたとしても、何ら問題はないように思えた。
私たちは10分ぐらい話して電話を置いた。
彼はこれからきっと他の人に電話をかけて、森川は今36歳だと、言っていくに違いない。
そしてそれが、私の現状についての一番明快な定義のような気がした。


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2005年1月26日
心理学の試験の採点が終わりました。

満点が一人いました。満点に近い人が何人かいました。
出席1回を3点とかぞえて試験の点数に加算し、評価をつけます。
面白解答に笑わせていただきました。時間ができたら、珍答名答をそのうち、授業のページに載せるかもしれません。時間との相談ですが。載せられたくない人はご一報ください。(いずれにせよ、名前はもちろん載せませんし、個人が特定される内容で友達から「あいつが書いたな」と分かられるようなものは載せません)

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2005年1月25日
今日は、火曜日なので、保健所の3歳児検診で、発達検査をした。
去年の今日、つまり1月25日は日曜日だった。
祖母の誕生日だった。

夕方、中州で研究会を終え、和菓子か何か買って実家に持っていこうかと思ったが、その日は、どうにも体がきつかった。
雪のちらつく、とても寒い日だった。

祖母は寂しがる人ではなく、どこかできっとそんな私の様子を知ったら、そっけなく「もう、よか、よか、来んでよか」と言いそうだった。なので、実家には行かなかった。
その夜、祖母は急死した。
通夜、葬式と過ごしていると、母の従姉が「女が大学行くような時代じゃなかったから、反対されたけど、おばさんが応援してくれて、うちのお父さんに言ってくれたから、私は大学に行けたんよ」と泣いた。
私は、祖母にそんなはっきり意見を言うような一面があったのかと意外に思った。
別の、母の従妹が言うには、「おばさんはね、あなたのお母さんが小さいときに、おしゃれさせて、手を引いて、音楽会に連れていきよったよ。あの時代に、少ない女のお給料でね。ハイカラやったよね」。
私は、祖母のハイカラなおばちゃん時代を知った。
精進明けの料理を食べていると、今度はいろんなおじさん達が、「あんたが産まれたときに、あんたの婆ちゃん母ちゃんは、どっちが仕事を辞めてあんたの面倒を見るかで、えらいもめよったなー。結局、婆ちゃんが折れて、しぶしぶ家に入りよったがなアハハ。」
私は、あのおとなしい婆さんが、家にいるよりも外で働き続けたかったのかと驚き、やはり人間というのは聞いてみないと分からないものだなと思った。
そこに祖母の弟が来て「姉ちゃんが結婚する前たい、二階の窓に座って下向いとったのを今でも思い出すねえ。お嫁に行きたくないっていうのを、行かんわけにはいかんとぞって、説得されよったたい」。
話がここに至っては、死んだとたんにこう一気に暴露されるのかと、少し可笑しくなってきた。
急速に増えていく情報量に、私は、祖母が死んで悲しいというよりも先に、祖母という豊かな人にはじめて会ったような気がした。

葬式となると、周りは、その人が生きている時には表に出せなかったことを語り合うものなのだろう。
これから自分が何年生きるか分からないが、葬式に出続けては秘密を聞くだろう。そして自分が死ぬときには、心の中が、他人の秘密つまり他人の人生でいっぱいになっているだろう。
それが、豊かな死ということかもしれない。

今年の1月25日は、暖かかった。

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2005年1月19日
アスパラガス。
ゆで卵を適当に切ったもの。

クリームチーズを適当にちぎったもの。
これに、オリーブオイル+黒こしょう+塩(普通のサラダより多めに塩を利かせる)をかけて、まぜる。

これは絶対にお勧め。黄金の相性だ。

昨夜は、これと、トマトソースの野菜パスタを作った。

2ヶ月ほどになるベジタリアン生活、実は、
じわじわと、予想外のことになってきた。
肉を見ると今までの習性で「おいしそう」とか思うし、外食などで出てくれば口にするのだが、食べてみると、「これは飲み込みたくない」と感じる。
魚は、食べ過ぎなければさほど苦痛ではない。
思うに肉は、勢いが強いものであって、ずっと食べていないと、食べにくくなるものなのだろう。
昼に学食で肉食をしている夫でさえも、「夜に肉を食うと腹を壊す」と言うようになった。厳密に言うと、今までは「腹を壊しても平気だった」らしいから、「腹を壊すということが気になるようになった」と言いかえるべきであろう。
そういうえばアーユルヴェーダでは牛や豚(そしてなぜかレンコンも)を夜には食べるものではないと書いてあった。

軽い気持ちで始めたベジタリアンだが、「肉を食べなければ健康」「食べればたちどころに不健康」、、
要するに、私たちはもう、後戻りできなくなってしまった。
肉を食べなければ、体は楽だ。

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2005年1月15日
博士論文の主査でもある、恩師のM山先生からお電話があった。
「アンタも忙しいのによく書いたな。会議で、アンタの博士論文を、東亜大学で審査するって承認が取れたから。良かった良かった。次は2月の公聴会だからな。これはしっかりやらんとアカンよ。40分発表、20分質疑だからね。パワーポイントか何かでね。みんな見てるからね。しっかりやらなアカンよ。まあ普通にやっときゃいいからね。」M山先生はそうして、「しっかりやらんとアカンよ」と、「普通にやっときゃいいからな」をそれぞれ5回ほど繰り替えしたあと、「まあ、8割がた通ったようなものだからな」とおっしゃった。
‥‥え?‥‥
話を総合すると、主査や副査の先生から「こってり絞られる」かどうかは、その大学の博士論文に対する考え方によって、かなり差があるらしい。
よその大学では、5回も10回も書き直しを命じられたあげく、「最初に書いたものが一番いいじゃないか」と言う話になったという、あんまりな話もある。
それを考えれば、私の境遇は、たいへんありがたいことだ。もっとも有難い境遇にいる1人かもしれない。
ただ、私のように、以前大学院に属した時から年数が経っている人は、学力を試す必要があるということで、これから1ヶ月のあいだに、英語のレポート、20枚の新しい論文をもう一個、そしてパワーポイントの資料。通常業務をやりながらのこれらの課題は、けっこうたいへんだ。
まずはすべてを脇に置いて、遊びたくなってきた。

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2005年1月11日
東亜大学に、論文の差し替えに行ってきた。
広い大学だった。
広すぎて、道を尋ねようにも、人がいなかった。
ここが最後の母校ということになる。
今度はもうちょっと、人がいるときに行きたい。
研究科主任の先生には、お会いすることができた。

関門海峡を渡り、産業大学へと戻ってきた。

こっちは今日、卒論の受付日だ。
教務委員として卒論受付事務をしていると、携帯が鳴り、「東亜大学で審議可能」という連絡をいただいた。

ここではじめて、正式に、主査副査の先生が決まったらしい。
これからこってり絞られ書きなおしを命じられるのだろうか。
などと思いながら、卒論受付事務に戻った。

産大では、卒論受付日が2日ある。
今日はその1日目。
半分の学生が初日に持ってくるなんて、なんて偉いんだ。
自分らの卒論の時は、間に合わずに、事務の扉に手をかけながら書いている人がいた。
とりあえず白い紙を提出し、何日か後に完成させて差し替えに行った人も居た。

‥差し替えという意味では、今日の私とあまり変わらないか。
今日、差し替えのために交通費が5000円ぐらいかかった私だった。

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2005年1月10日
そうしている人が多いと思うが、
実は、ホームページに「アクセス解析」というのをつけている。

そうすると、どんなキーワードでこのホームページを検索されているかが分かる。
一番多いのは、「フォーカシング」での検索。
二番目はなんと、日記の中にある、「とげの抜き方」だ。
経験談は、やはり書いてみるものだ。
毎日のように、「とげの抜き方」が検索されているのを見ると、日本中にこんなにとげが刺さった人がいるのかと、親近感を感じる。

いろいろなホームページに情報があるので、たいていのことは分かる今日このごろだが
「博士論文の書き方」は、HPにはあまり載っていない。なぜだ。
よほど怖いことが行われるのだろうか。
誰か書いてくれないと、空想が膨らむではないか。

よく分からないままに、恩師のお導きで、
先日、下関の東亜大学に博士論文を提出した私だが、
「ページ番号がついていないので読みにくい」とのご指摘をいただき、
今日、印字しなおしに大学に来た。
明日の朝一で差し替えにいかないといけない。
さっき、紙が無くなってコンビニに買いにいった。
紙は売っていなかった。
コピー機を指差して「あの紙を売ってくださいませんか」と言うと、店員さんはカタログを出してきて値段を調べ、「非売品なんですが」と言いながら、5000枚の紙束を413円で売ってくれた。

噂には、こってり絞られた上で出されるのが博士の学位だと聞くが、
この先どういう手続きになるのか、いつどの会議で「絞られる」のか、全く分からない。
分かっているのは、今、研究科主任の先生が、ページ番号がついていなくて読みにくい私の論文を、お休みの日にもかかわらず、読んでくださっているということだけだ。

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2004年1月5日
私の好きなものは、くじ、おまけ、安売りだ。

こんな私が、福袋にときめかないわけはない。
正直がっかりしたりもするのに、買わずにはおられない。
洋服屋の、1万円の福袋をゲット。
質の悪いカーデガンが1着。
質の良い無地のインナーが2着。
あとは、外国製のサイケデリックなインナーが1着。これが、どういうわけか親に非常に良く似合ったので、あげる。
総じて福袋に勝利したと思われたので、私はもう一つ欲しくなり、別の店に買いに行く。

すると慎重な女の人が、「どんなのが入ってるんですか?」と店員さんに確認している。
店員さん「インナー2点とジャケット1点と小物ですよ。いやほんと、ほんとにお勧めですから。あ、どれかに、ピンクの革のジャケットが入ってますけどね、それを除けば、無難なものが多いのでー」
女の人「‥‥‥」
店員さん「あ、いやいや、じゃあ、ピンクのやつじゃないのを、お渡ししましょうね、ほら、多分、これですから」。
店員さんが袋の重さをみながら判断したのを、私はみのがさなかった。
私は残った袋の中から、重いものを避け、レジへと向かった。

‥そしてピンクのジャケットが私のワードローブに加わった。
「革」じゃなくて、ぬいぐるみみたいな軽い毛皮風のジャケットだったのだ。
この年で、、、ピンクのふわふわ、、、
しかしこんな洋服こそ得てして、着倒すことになるのだ。
福袋に負けたと認めたくないから、せっせと着るのだ。
着れば、着れないことはない。
まるでお気に入りの一着みたいに着てしまう。

こうして今年も勝ったのか負けたのか分からない福袋との戦いが終わった。あまり、勝ち続けると買い続けるから、これくらいでよかったのかもしれない。
ちなみに、お菓子の福袋は当たり外れがないので、お勧めです。

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2004年12月28日(火)
昨日、福岡市男女共同参画センター(アミカス)の会議に、出させていただいた。県警にいた頃から数年来、職業上出席している。
館長さんが、「どうですか、九産大では、『男性相談のための男性カウンセラー』の養成はなさらないんですか?」と、勧めるようにおっしゃった。
『男性のための男性カウンセラー』というのはこの場合、ジェンダーに造詣が深いカウンセラーのことで、従来の男性観に縛られない男性の新しい生き方を模索していこうという考え方を背景に持つ人だ。
各地の女性センターが「男女共同参画センター」に名を変え、
一部の男女共同参画センターでは、男性のための相談日を設けて、そのための男性相談員を(常勤ではないだろうが)雇い、相談が盛況だという。

現在福岡では、そうした男性の相談は、メンズリブ福岡の原さんという方が、仕事の合間をぬって、個人で相談を受けてある。数年来、ほぼお1人での、ボランティア。頭が下がる。
男性カウンセラー養成といっても、職業として確立されていない新しい領域のこと。興味関心資質が揃った人が出てこないと、焚きつけたってはじまらないので、急にどうこうできるわけではないが、
時代が少しずつ変わってきているのを感じる。

変わったといえば、昨日1ヶ月ぶりぐらいに、棟猫のじろーちゃんがうちに遊びに来た。
後ろから見ると、横から腹がせり出している。足も尻尾も、こんなに太かったっけ、というぐらい太い。身長も立派なものだ。がっしりと大柄な猫に成長していた。
大好きな遊び道具の音がすると、すぐに寄ってくる。ジャンプ、ジャンプ、パンチ、キャッチ。
でも、昔ほどは動かない。
腰を落とし、おもちゃの「獲物」にねらいを定めて待つ。ちょっと知らん振りして「獲物」をだます。そんな時間が増えた。
ついこの前まで、2時間も3時間も、遊んでくれと鳴いたり噛んだりたいへんだったものだ。だから彼が急に黙って身体を舐め始めると、「「こんな乱暴者でも、毛づくろいをするのか」と、ぎょっとしたものだ。
それほど、彼は、すごかった。
それが今やこの落ち着きぶりだ。
テレビでスマスマをつけていると、じろーちゃんがじーっと見ている。
あのじろーちゃんが、目を開けたままじっとしている。

彼が家に来るようになってわずか半年。その当初はおそらく、子猫と成猫の中間ぐらいだったのだろう。
今や成猫、そして1、2年もすれば中年か。
早い。
あっという間に、変わっていく。

私自身はどうだろう。
今年変わった主だったことといえば、
昨年よりは少し余裕のある形で、前期後期の授業を終えたこと。そしてベジタリアンになったこと、だろうか。消化にエネルギーを出さなくていいので、軽く穏やかになったような気がする。

来年が、皆様にとって良い年でありますように。
また来年5日ごろから、日記も書いていこうと思います(本当か?)。


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2004年12月21日
こう、日記を更新しないと生きてるか死んでるか分からないと思われるでしょうが、生きています。忙しいです。今、21:15です。さきほど、最後から2番目の授業が終わりました。笑いました(←エンカウンターの演習なので)。隣の教室も授業やってたんですね。うるさかったでしょうね‥すみません。よく苦情が来なかったものです。明日が今期最後の授業になります。





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2004年12月10日
ベジタリアン宣言をして10日が過ぎた。
肉、魚を抜いて料理を作る。
おいしいときと、まずい時がある。
昨日は、大豆タンパクを鶏肉代わりにして、野菜と一緒に牛乳で煮たら、めちゃくちゃまずかった。
大豆タンパクは鶏肉の代わりにならないことが分かった。あれは、やはり、大豆だ。

といった失敗はあるものの、
おおむね不自由は感じない。
肉は、獣くさいと感じるようになった。

ひょんなことからベジタリアンをしてみているわけだが、
なぜここまで続いているかというと、下心があるからだ。
「聖なる予言」という本(スピリチュアリティーについて、冒険小説仕立てで書いてある本)には、
よく育てられた野菜を食べている人は、植物や動物のエネルギーのオーラが見えるようになると書いてあるのだ。

まだオーラは見えない。
まあ、鶏がらスープの元や、オイスターソースを使っているうちは、駄目かもしれない。



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2004年12月3日(金)
臨床心理学科は新しい。
備品も新しい。
真新しい箱庭の蓋を、開けたり閉めたりする時に、
いつもいやな予感がしていたが、しばらく前、ついに、指に棘が刺さった。
一本はすぐ抜けた。しかしもう一本は、棘が刺さりきって、棘の頭の部分が、0.1ミリぐらいしか出ていない。
なので、つまんで抜くことができない。
かなり鈍角とはいえ、指の内側に入り込んでいる。

仕方ないので、そのまま人差し指をかばって生活する。
人差し指にものが触れても、なんということもない。
その部分を上から撫でても、大丈夫だ。
うまくいけば、小学校の頃の、「鉛筆の芯が手のひらに刺さって刺さったままになっている状態」のように、やがては手と一体化して、忘れていけるものかもしれない。
と、油断していると、ふとした時に、その部分に何かが触れると、痛みが走る。
「ああ、やっぱり、駄目なんだ」「このまま続くかもしれない」と思う。
その感じは、心の傷に似ている。
というか、昔の人は、よくぞ心のそれを、「心の棘」なんて言い表したなあと思う。

夫が、「5円玉を押し当てたら、棘が取れ易くなるよ」と言う。
やってみたが、0.1ミリしか棘の頭が出ていないという状態は変わらず、棘をつまむことができない。
夫は「なら、針でやるしかないが。針をジュッと焼いて消毒して、皮膚を少し破って、掻き出すったい。よう、子どもの頃、されよったたい。」
‥怖い。^^;
日一日と過ぎていく。
ネットで「とげの抜き方」を検索すると、3件しか出てこない。
その少なさによって、ますます不安になる。
1件は、皮膚を破って取り出すというもの。
1件は、5円玉。
そしてもう1件は、「さといもをすりおろしたものを、その部分につけると、とりにくい棘も1日ぐらいで取れます」と書いてある。
さといもで取れるとは、想像がつかなかったが、もう、なんでもいいからやってみることにした。
さといもをすりおろし、塗り、絆創膏でぐるぐる巻きにする。
そうだ、もしかして、指がふやけて、穴が大きくなって、取れ易くなるかも^^)。と期待したが、1日後、白くふやけた指に、さらに棘がめり込んで見えた。
痛みは少なくなっていた。
諦めて、絆創膏をはずして、寝た。

一夜明けて、指のふやけが引くと、棘の頭が0.5ミリぐらい外に出ていた。
黒い棘の全貌が、はっきり浮かび上がって見えた。今まで内側に入り込んでいた部分も、手の皮の方に押しやられたように見える。
棘をめくって倒すように動かしてみると、棘はなぜか柔らかくなっており、しなった。
つまんだら、抜けた。

〜晴れて自由の身〜らりほ〜〜

ということで、棘は、時間が経ったら取れ易くなるということがあることがわかった。
さといもと絆創膏のどちらが効いたかは分からないが、どちらもかもしれない。
おためしあれ。
というか、大人になって棘が刺さる人は珍しいかもしれないが‥。


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2004年11月29日
私は知らなかったが、人間ドックに入る際には、3日ぐらい、魚、肉、ねり製品など「血を含むもの」を断ったほうがいいらしい。
人間ドッグの説明書を丁寧に読んだ夫が、「3日間ぐらい料理を魚、肉ぬきでやってほしい」と私に言った。そういうものが好きな夫は、非常に嫌そうだった。
しかしそういう料理を、作って出してみると、「こっちの方がおいしいかも」と言い出した。
中年になっているにもかかわらず、日頃、学生向けの高カロリー食を学食で食べるから、夜ぐらいは、ベジタリアンで行ってもいいのではないかという。
ということで、いつまで続くか分からないが、一昨日からベジタリアンになった。

ネットで調べてみると、ベジタリアンにはいろいろあり、
「肉・魚類のみでなく、たまねぎ、ねぎ、にんにくを食べない」というやり方の人もいるらしい。
なぜたまねぎ、ねぎ、にんにくが駄目なのだろうか。強壮野菜を食べないということだろうか。ベジタリアンは奥が深い。

ちなみに昨夜はグラタンを作ったが、野菜のグラタンにたまねぎを入れたら、たまねぎの味が強すぎて、たまねぎが浮いた。



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2004年11月27日(土)うちの大学の臨床心理学科には、まだ1年生しかいない。
私は来年、臨床心理学科の2年生に、「心理学研究法A」という授業で、心理検査を教えることになっている。

検査といえば、ロールシャッハに触れざるを得ないのではなかろうか。
ロールシャッハとは、インクの染みを印刷した図版を見せて「これが何に見えますか」と問うテストだ。

一般の方は、「それで何が分かるんだろう」と思われるだろう。実際、これから意味を汲み取るには、検査者の主観が入らないような一定の手続きと計算式で結果を整理し、統計に照らし合わせながら解釈しなければならず、(検査者にとって)最も難しい心理検査のように言われている。
私はこの大学に来る前の就職先が電話相談だったので、ロールシャッハを現場で使ったことはない。
折りしも今日は、大学院の「査定演習」の授業の一環で、第二病院の浦田先生によるロールシャッハ法の特別講義が行われたので、
院生にまじって、聴講させていただいた。
浦田先生は、ロールシャッハのお膝元、中京大学で勉強なさったということだ。
浦田先生は共感的でいらっしゃって、「記号が多くて嫌になろう?僕も学部の頃、挫折したよ」などとおっしゃりながら、教えてくださった。
質問すればすぐに明快な答えが返ってくる。話のもっていきかたも、それ以上はないだろうという、分かり易い授業だった。

それにもかかわらず、分量がたいへん多いと感じた。
なんせロールシャッハテストの集計は、アルファベット記号の羅列だ。
アルプスの少女ハイジの気持ちが分かった。
しまいにはアルファベットがぜんぶヤギに見えてきて、椅子に登って「さよ〜なら〜」と手をふりたくなった。

復習の意味で参加した私でこうなのだから、

初めて聴く人には、たいへんだろう。
今日1日4時限分の授業は、ふつう3ヶ月ぐらいかけて(12時限で)じわじわやっていくものらしい。
それくらい、ロールシャッハは覚えることが多い。
現場に出て急に覚えられるわけではないから、
やはり学部の時点でロールシャッハをやっておかないといけないと、はっきりわかった。

ここで心配になったのは、学部の授業だ。
「心理学研究法A」では、そもそも心理テストとはなんぞやというところから教えなければならないし、ロールシャッハをお互いに取り合うという時間も必要だ。
ロールシャッハの解釈法に使える時間は、せいぜい4〜5時限。
今日、院生と私が勉強したのと同じぐらいの時間数だ。
‥学部生は大丈夫だろうか。
今年、1年生は、体験型の授業で自己理解を主体として、けっこう楽しげに、心理学を勉強しているはずだが、来年から、たいへん頭が忙しくなるのではないかと思う。私の「精神保健論」だけとっても、病気の名前を覚えないといけないし、後期の「心理学研究法B」はほぼ数学だし‥。
まあ、臨床心理学科らしくなるといえば、そうなのだが。
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